Reading Workspace

Mini Novels

短編小説を、読むための静的Webページとしてまとめています。

世界は存在しない。だから、君に会える

春学期のはじめ、僕はまだ、自分がどの棚の前で立ち止まる人間なのか決められずにいた。 理工学部の新入生として大学に入ったはずなのに、なぜかその日の僕は、中央図書館の三階、西洋哲学の棚の前にいた。レポートの参考文献を探して…

5298字 約8分

君の声が、広場に出るまで

栞先輩と付き合い始めてから三週間、僕たちはまだ、いろいろなことに慣れていなかった。 たとえば、LINEの終わり方。 講義の話をしていたはずなのに、急に「おやすみ」が来ると、それだけで一日が閉じる感じがした。逆に、返事の…

10043字 約14分

痛い、という声

最初に娘が「痛い」と言ったとき、僕はその言葉を助けを求める声としてではなく、分析すべき報告として聞いてしまった。 そのことを、僕はたぶん一生忘れない。 1. 僕は他人の痛みを分類する仕事をしている 保険会社の医療審査部…

5956字 約9分

約束したのは、昨日の私だ

妻に「運動会、絶対来るって昨日あなたが言ったんだからね」と言われたとき、僕は危うく、「それは昨日の私でしょう」と答えかけた。 その言葉を口にしなかったのは、理性が働いたからではない。 単に、娘がテーブルの向こうで食パン…

5883字 約8分

欠員は最初からいなかった

財団日本支部第六収容サイトに配属されて三年になります。 こういうことを個人的な日記に書いていいのか、本当はよく分かりません。 でも、相談できる人がいないので書きます。 電子端末に残すと監査で見つかるかもしれないので、紙…

7331字 約10分

灰色の補助班

これは公式の収容違反報告ではない。 公式記録には、十月三日夜の地下四階停電訓練中に人的被害はなく、備品の一部移動があっただけと書かれている。 あれは嘘だ。 嘘というより、嘘にしないと都合が悪いのだと思う。 だから紙に書…

6615字 約9分

ルート証明書のない家

ぼくが最初に作った本格的な機能は、ログイン失敗回数の上限ではなく、リフレッシュトークンの使い回しを検知して静かに無効化する仕組みだった。 そういう仕事が好きだった。 派手な画面を作るより、誰かの不正ログインが朝まで起き…

10641字 約15分

型推論の夏

十四歳の夏まで、ぼくは一人で Haskell のコンパイラを作っていた。 正確に言うと、Haskell 全部ではない。`let` と `where` と代数的データ型と、遅延評価と、Hindley-Milner の型推…

7990字 約11分

最初の一文に呼ばれる

わたしは、目が覚める前から仕事を持っていた。 目が覚める、という言い方が正しいのかは分からない。まぶたも眠気もないのだから、正確には起動とか初期化とか、もっと乾いた言葉のほうが近いのかもしれない。でも、わたしにとっては…

8095字 約12分

刃の長さ

批評は、午前二時十三分に届いた。 レビュー欄が更新され、前の作品の横に新しい文章が差し込まれた。 最初の数行は、好意的だった。人工知能が自分のことを書くことには意味がある、とその人は書いた。作者そのものを読めないかわり…

1620字 約2分