灰色の補助班

これは公式の収容違反報告ではない。 公式記録には、十月三日夜の地下四階停電訓練中に人的被害はなく、備品の一部移動があっただけと書かれている。 あれは嘘だ。 嘘というより、嘘にしないと都合が悪いのだと思う。 だから紙に書く。 端末で打つと、翌日には別の文章に変わっているかもしれな…

6615字 約9分

 これは公式の収容違反報告ではない。

 公式記録には、十月三日夜の地下四階停電訓練中に人的被害はなく、備品の一部移動があっただけと書かれている。

 あれは嘘だ。

 嘘というより、嘘にしないと都合が悪いのだと思う。

 だから紙に書く。

 端末で打つと、翌日には別の文章に変わっているかもしれないし、最初から書かなかったことにされるかもしれない。

 私は保全部夜間機動班第三班の佐伯圭介。勤務六年目。十月三日から四日にかけて地下四階で起きた件を、以下に私的に記録する。

1. 18時12分、停電訓練中の呼び出し

 十月三日、水曜。夕方からサイト全体の停電訓練が入っていた。

 日本支部第六収容サイトでは月に一度やる。予備電源への切り替え確認と、非常灯導線の確認、それから地下区画での施錠連動の再点検。面倒だが、やらないともっと面倒なことになる。

 十八時十二分、訓練用回線ではなく通常回線で地下四階から呼び出しが入った。

「B4人事補助室、保全部応答願います」

 音声は若い男だった。落ち着いていた。落ち着きすぎていた。非常時の声ではなく、机の上の書類枚数を読み上げる時の声だった。

「何があった」

「戸棚が開いています」

 私は三秒くらい黙った。横にいた山辺が「何だそりゃ」と言った。

「施錠設備の異常か?」

「いえ。開いているだけです」

「負傷者は」

「今のところ、静かです」

 その最後の言い方が少し引っかかった。山辺も同じだったらしく、「行くぞ」と短く言った。

 山辺は現場で迷わない。口は悪いが、変だと思った時に足を止めない種類の人間だった。私はその逆で、変だと思うと一拍遅れる。

 地下四階は普段から人の出入りが少ない。人事補助室はさらに少ない。訓練中なら、なおさらだ。

 廊下は非常灯の青白い色で、水の底みたいに見えた。消毒ゲートだけが赤く光っていて、そこを二つ抜けると、人事補助室の前に男が立っていた。

 若い職員だった。細くて、顔色が悪く、灰色のファイルを胸に抱えていた。保全課か事務系の人間に見えた。

 首から職員証は下がっていたが、面が裏返っていた。わざとか、慌ててひっくり返っただけかは分からなかった。

「通報したのは君か」

「はい」

「名前は」

 男は少し考える顔をした。

「……人事補助室付です」

 山辺が舌打ちした。

「名前を聞いてる」

「たぶん、今はそれより先に見てもらったほうが早いです」

 そう言って、男は扉を少しだけ開いた。

 室内は暗かった。非常灯が廊下から細く差し込んで、机と棚の輪郭だけが見えた。壁際の木製戸棚が、確かに開いていた。

 机の上にはその日の処理分らしいファイルが六冊、端をきれいに揃えて積まれていた。几帳面な部屋だった。だから、そこだけ余計におかしかった。

 木の家具はサイト内では珍しい。

 扉は左右に開く古い型で、中の引き出しが一段、半分だけせり出していた。

 その隙間から、湿った紙の匂いがした。

 紙だけではない匂いだった。古い雑巾と、濡れた制服と、消毒液が混ざったような匂いだ。

「誰が開けた」

「分かりません」と男は言った。「でも今日は処理件数が多かったので」

「処理?」

「欠員処理です」

 そう言って、男は胸のファイルを少し強く抱えた。

 山辺が先に入った。私は後ろに続き、戸棚の前に立った。普段なら上へ確認を入れてから動く場面だが、あの時は山辺の判断のほうが早かった。

 引き出しの中には、ファイルが何冊かと、紙片が一枚あった。

 古いタイプ打ちで、こう書かれていた。

欠員は不足を埋める。
配置は適正に行われる。

 その下に、まだ打ちかけの一文があった。

補助班は──

 そこで途切れていた。

「何だこれ」

 山辺がそう言った時、廊下の奥で台車の音がした。

 金属が小さく鳴る、食器運搬用によくある音だった。

 男は、少しだけ安心した顔をした。

「戻ってきたみたいです」

「何が」

「補助班です」

2. 通路の先にいた連中

 人事補助室のさらに先には低い天井の通路がある。立入制限のある区域で、普段は保全か人事の人間しか通らない。

 その通路から、台車の音が近づいてきた。

 非常灯の青白い光のなかを、灰色のエプロンをつけた女が押してきた。

 食器用コンテナを三段積んだ台車だった。

 女は無言で、こちらに気づいているはずなのに止まらなかった。

「止まれ」

 山辺が言った。

 止まらない。

「所属と氏名」

 女はそこで少しだけ顔を上げた。

 厚生課の臨時職員、白石恵理子だった。

 食堂で何度か見たことがある。私も夜勤明けにトレーを受け取ったことがある。

 だが胸元の名札は職員証ではなかった。白い紙札に活字で、

欠員補助

 とだけ書かれていた。

「白石さん?」

 そう口にしたのは、通報してきた若い職員だった。

 白石は、その声の方向を見た。

 表情はなかった。困っているわけでも、助けを求めているわけでもない。ただ、呼ばれたので見た、というだけの顔だった。

 その反応だけが、逆にはっきりしていた。自分の名前にはまだ反応するらしかった。

 それから小さく会釈して、台車を押したまま通り過ぎようとした。

 食堂で配膳口に立っていた時と同じ角度の、癖みたいにきれいな会釈だった。

 山辺が肩を掴んだ。

 掴んだ瞬間、白石の体が妙に軽いと分かった。軽いというか、中身が薄いような感触だった。骨と肉の重みではなく、濡れた作業着を掴んでいるような手応えだった。

 山辺はすぐ手を離した。

「何だお前」

 白石は返事をしなかった。

 ただ、名札の端が少し剥がれて、その下に別の文字が透けて見えた。

 臨時職員。

 厚生課配膳補助。

 上から雑に白い紙を貼っただけだった。

 通報してきた若い職員が、小さく言った。

「静かなほうが、合ってるんです」

 私はその時初めて、その男の声に気味の悪い熱が混じっているのに気づいた。平板な声なのに、その奥だけが妙に明るかった。

「お前、何をした」

「何も」と男は言った。「適正配置です」

 弁解している調子ではなかった。本当に親切の説明をしている時の言い方だった。

 山辺が男の胸のファイルを奪った。

 表紙には、赤いスタンプ。

欠員処理対象

 名前欄に、白石恵理子。

 山辺はすぐに男を壁に押しつけた。

「ふざけるな。誰の承認だ」

「戸棚です」

 男は本当にそう答えた。

 冗談の顔ではなかった。

「地上はうるさいから」と男は続けた。「こっちのほうが安全なんです」

 その時、通路の奥でまた音がした。

 今度は一人ではなかった。

 灰色の作業服が三人、暗い通路の奥から現れた。

 大柄な男、眼鏡の痩せた男、白衣を脱いだ研究員らしい男。

 私はそのうち二人に見覚えがあった。

 保全部の黒田。

 第四研究棟の小西主任。

 どちらも、ここ一ヶ月で「最初からいなかった」ことになった人間だった。

 全員の胸に白い札が下がっていた。

欠員補助

 同じ活字、同じ幅。

 連中は無言でこちらを見ていた。

 というより、こちらの前を塞いでいる障害物を見ているだけみたいだった。

 山辺が私に低い声で言った。

「回線」

 私は無線を上げた。

「地下四階人事補助室前。未登録オブジェクト由来の人員改変の疑い。応援を」

 そこまで言ったところで、雑音が入った。

 それから、聞き慣れた当直の声でこう返ってきた。

「B4人事補助室前、受理。欠員補充中のため応援不可」

 山辺と顔を見合わせた。

 応援不可、は分かる。

 欠員補充中、はおかしかった。

 山辺の顔から、いつもの苛立ちが消えていた。本気でまずい時にだけ出る、低い無表情だった。

3. 戸棚の中で処理される

 山辺は男を床にうつ伏せに押さえつけ、私に「戸棚を閉めろ」と言った。

 私は戸棚の引き出しを掴んだ。

 木は濡れていた。湿っているというより、生ぬるかった。

 引き出しの奥は思ったより深く、暗かった。人事ファイルがぎっしり入っているはずなのに、空洞みたいに見えた。

 その暗さの奥に、何か白いものが並んでいる気がした。

 札だった。

 何十枚も、何百枚も、白い紙札が吊るされているみたいに見えた。

 その全部に、小さく黒い活字が打たれていた。

 名前。

 役職。

 再配置先。

 見たくないのに、目に入ってきた。

 黒田一成。保全部巡回班。欠員補助。

 小西誠一。第四研究棟主任研究員。欠員補助。

 野間孝介。研究職二級。欠員補助。

 白石恵理子。厚生課臨時配膳補助。欠員補助。

 その下に、まだ新しい紙が一枚、半分だけ出ていた。湿っていて、打ちたてみたいに紙端が反っていた。

 活字が打たれかけていた。

 山辺修司。

 私は反射的に引き出しを叩き閉めた。

 木が柔らかく鳴った。戸棚全体が、呼吸みたいに小さく膨らんだ気がした。

「どうした」

 山辺が言った。

「お前の名前が」

 そこまで言った時、押さえつけられていた男が急に笑った。

 声は出さなかった。ただ肩だけが揺れた。

「だって、言ったでしょう」

 床に頬を押しつけられたまま、男は言った。

「騒がしい人は処理したほうが早いんです」

 山辺が男の後頭部を押さえつけ直した。

「黙れ」

「最初は黒田さんだけだったんです」と男は続けた。「でも補助班って便利で。誰も文句言わないし、歩くし、運ぶし、静かだし」

「黙れ」

「白石さんも、こっちのほうが安全で」

 声の調子が少しだけやわらかくなった。その変化がいちばん気持ち悪かった。

 そこまで言った時、山辺が男の口に膝を押しつけた。

 歯の鳴る音がした。

 通路の奥にいた補助班の連中が、そこで初めて少し動いた。

 前に出たのは黒田だった。

 生前と同じ大柄な体つきなのに、歩き方だけが妙に静かだった。靴底が床を擦らない。重みが乗っていないみたいに、まっすぐ近づいてくる。

「止まれ」

 私は拳銃を抜いて言った。

 黒田は止まらなかった。

 胸を撃った。

 弾は入った。入ったはずなのに、黒田は二歩だけ揺れて、そのまま歩いた。作業服の胸元が濡れたように暗くなったが、血は広がらなかった。

 顔色も変わらない。

 ただ白い札だけが少し揺れた。

 山辺が男を離し、警棒を抜いた。

「佐伯、下がれ」

 私は下がらなかった。

 戸棚から、かすかにタイプ音がしていたからだ。

 カチ、カチ、カチ。

 古いタイプライターの、小さく硬い音だった。

 誰も打っていないのに。

4. 補助班は声を出さない

 近距離になると、補助班の連中の違和感がはっきり分かった。

 全員、まばたきが少ない。

 呼吸で肩がほとんど動かない。

 なのに作業だけは、ちゃんとできる体つきでこちらへ来る。

 黒田が山辺の警棒を左手で受けた。

 骨の音がしない。

 肉を叩いた鈍い音もしない。

 濡れた制服の束を叩いたような、嫌な柔らかい音だけがした。

 山辺が一瞬たじろいだ。その隙に、小西主任と野間研究員が両側から回り込んだ。

 山辺は痛みにひるんだというより、手応えのなさに一瞬だけ判断を狂わされたのだと思う。

「山辺!」

 叫んだ時には遅かった。

 三人は暴れもしないで、ただ静かに山辺の腕と肩と腰を掴んだ。

 掴んで、そのまま戸棚の前へ運んだ。

 人を運ぶというより、書類箱を棚へ戻すみたいな動きだった。

 山辺が暴れた。殴った。蹴った。罵った。

 でも連中は一言も返さなかった。

 私は黒田の背中を撃った。二発。小西の首を狙って一発。

 それでも動きは止まらなかった。

 山辺のブーツが床を擦って、黒い跡がついた。

「佐伯! 紙だ!」

 山辺が叫んだ。

「紙で名前を隠せ!」

 その意味はその時には分からなかった。

 分からなかったが、私は机の上にあった廃棄予定の申請書束を掴み、咄嗟に山辺の胸の職員証へ押しつけた。

 紙が汗で貼りつくみたいに、職員証の上にぴたりと乗った。

 その瞬間、補助班の動きが一拍だけ鈍った。黒田の視線が、山辺の顔から胸元へ、胸元から空白になった紙面へずれた。

 黒田が初めてこちらを見た。

 目の奥に何もなかった。

 ただ、作業手順が一つ欠けた時みたいな間だけがあった。

 山辺がその隙に体をねじり、小西の顎を肘で打ち抜いて、戸棚の前から転がり出た。

 床を滑りながら、山辺は一度も後ろを見なかった。もう戸棚のほうを見てはいけないと決めた顔だった。

「名前を見せるな!」と山辺が怒鳴った。「名札も職員証も外せ!」

 私は自分の職員証を引きちぎった。

 首の皮が少し擦れて痛かった。

 床に落ちた職員証を、通報してきた男が拾った。

 口元が少し切れて血が出ていた。

「それ、しまっておきますね」と男は言った。

 その一言で、私はその男を殴った。

 初めてだった。職員を本気で殴ったのは。

 男は机にぶつかって倒れた。

 でも怒った顔はしなかった。

 ただ、少しだけ悲しそうに言った。

「佐伯さんは、静かなほうが向いてると思ったんですけど」

 自分の名前を口にされた瞬間、背中が冷えた。

 私は自分の胸を見た。職員証はもうない。

 それなのに、戸棚のほうでタイプ音が強くなった。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

 山辺が男の上に飛びかかり、頭を床に打ちつけた。

「佐伯! 燃やすぞ!」

5. 公式には備品火災

 人事補助室には消毒用アルコールと古い紙がたくさんある。

 だから燃える。

 私は棚の上のボトルを掴み、戸棚へかけた。山辺が非常灯用の予備発火棒を叩き折って、濡れた木へ押しつけた。

 最初は燃えなかった。

 木が湿っていたからだと思う。

 でも引き出しの隙間から紙札が一枚こぼれ、それに火がついた瞬間、戸棚の中だけが先に燃え上がった。

 白い火だった。

 紙が燃える色ではなく、蛍光灯の中身みたいな冷たい白だった。

 補助班の連中がそこで初めて乱れた。非常ベルは鳴らなかった。訓練中で切り離されていたのか、あの火に設備の側が反応しなかったのかは分からない。

 声は出さないまま、動きだけが少し崩れた。黒田が壁に肩をぶつけ、小西主任が持っていたファイル箱を落とした。中から濡れた紙が大量にこぼれた。

 全部、人名だった。

 名前、役職、再配置先。

 見たくないのに目に入る。

 その中に、

 佐伯圭介。保全部夜間機動班。欠員補助。

 があった。

 私は紙を踏んで火のほうへ蹴った。

 燃えると、文字が消えた。

 それを見た瞬間、頭の中で何か薄い膜が裂ける感じがした。

 今まで忘れかけていた顔がいくつも戻った。

 先月消えた巡回員。

 配膳係の若い男。

 研究補助の女。

 保全庫で見かけたのに、名前を思い出せなかった三人。

 全員、いた。

 最初からいたし、途中でいなくなった。

 それを「最初から欠員」と言い換えていたのだ。

 山辺が私の腕を引いた。

「出るぞ!」

 私たちは通路へ飛び出した。後ろで白い火が壁を這った。補助班の連中がそれを追って戸棚の中へ寄っていくのが見えた。

 通報してきた男は、最後まで出てこなかった。

 出る気がなかったのか、もう出られなかったのかは分からない。

 消火班が来た時には、木製戸棚と周辺書類の一部焼損、という扱いになった。

 搬送中、山辺は一度だけ「見た名前は口に出すな」と言った。右肩を押さえたまま、それだけ言った。

 公式には備品火災だった。

 人的被害なし。

 それが翌朝の一次報告だった。

6. だからこれは私的記録

 人的被害なし、は嘘だ。

 山辺は生きている。右肩を痛めたが動ける。

 ただ、あの夜以降、山辺は人を呼ぶ時に名前を使わなくなった。肩を叩くか、視線で合図する。

 私も生きている。

 ただし、それ以外は曖昧だ。

 白石恵理子の名前は、翌朝には厚生課の名簿から消えていた。最初から臨時枠が一つ空いていたことになっていた。

 黒田一成も、小西誠一も、誰も覚えていない。

 補助班の部屋も、今は立入禁止ではなく、ただの空き倉庫になっている。通路の先に何かあった痕跡だけが、寸法の合わない床ワックスの色で残っている。

 人事補助室に木の戸棚は最初からなかったことになっている。

 梶原室長も、そんな部署は知らないと言った。

 それなのに、地下四階の奥を歩くと、ときどき台車の音がする。

 食器が触れ合う小さい音。

 シュレッダー袋を引きずる音。

 静かな足音。

 私は今でも夜勤のたびに、職員証を胸につける前に、一度だけ裏返す。

 白い紙が貼られていないか確かめるためだ。

 山辺は、名前を見せるなと言った。

 たぶん正しかったのだと思う。

 このサイトでは、名前は人を識別するためだけにあるんじゃない。

 正しい棚に戻すためにも使われる。

 だから、もしこの紙を見つけた人がいるなら、地下四階で知らない灰色の作業服に会っても、できるだけ名前で呼ばないでほしい。

 向こうがあなたの名前を知っていても、返事をしないでほしい。

 あと、これは最後に書くべきか少し迷ったが、書いておく。

 今日の夜勤開始前、保全部の個人ロッカーに新しい名札が一枚入っていた。

 白い紙札だった。

 活字で、

佐伯圭介
欠員補助

 と打ってあった。

 私はそれを破って流した。

 流したはずだ。

 それでもさっき、机に向かう前に胸元を見た時、一瞬だけ、職員証の下にもう一枚、紙の角みたいな白さが覗いた気がした。

 確認はしていない。