君の声が、広場に出るまで

栞先輩と付き合い始めてから三週間、僕たちはまだ、いろいろなことに慣れていなかった。 たとえば、LINEの終わり方。 講義の話をしていたはずなのに、急に「おやすみ」が来ると、それだけで一日が閉じる感じがした。逆に、返事のタイミングを逃すと、会話が切れたのか、ただ授業中なだけなのか…

10043字 約14分

 栞先輩と付き合い始めてから三週間、僕たちはまだ、いろいろなことに慣れていなかった。

 たとえば、LINEの終わり方。

 講義の話をしていたはずなのに、急に「おやすみ」が来ると、それだけで一日が閉じる感じがした。逆に、返事のタイミングを逃すと、会話が切れたのか、ただ授業中なだけなのか分からなくて落ち着かない。

 たとえば、呼び方。

 僕は相変わらず「先輩」と呼んでいて、栞先輩は相変わらず僕を苗字で呼んでいた。それが自然でもあり、不自然でもあった。恋人になったはずなのに、名称だけが前のまま残っている。

 たとえば、土曜日の朝に届く、短いメッセージ。

「十一時、喫茶月白に来て。できれば動きやすい服」

 文面は簡潔で、理由は書かれていない。けれど最後に、珍しく絵文字ではなく句点のない追伸がついていた。

「手伝ってほしい」

 それだけで、断る理由はなかった。

1. 栞先輩は、喫茶店でエプロンを着る

 喫茶月白は、大学の裏門を出て十分ほど歩いた坂の途中にある、小さな古い店だった。ガラス戸の木枠は雨で少し膨らみ、真鍮の取っ手は、たくさんの手に触れられて丸く光っている。

 店に入ると、コーヒー豆と古い紙の匂いがした。壁一面の棚には、文庫本と哲学書と、どういう基準か分からない古い写真集が並んでいる。

「いらっしゃい」と言いかけた声が途中で止まった。

 カウンターの中にいたのは、エプロン姿の栞先輩だった。白いシャツの袖を二回折り、髪はいつもより高い位置で結ばれている。前に見たときより、ずっと生活に近い姿だった。

「ちゃんと来た」

「呼ばれたので」

「えらい」

 その言い方が、いつもの講義みたいな調子ではなくて、少しだけ柔らかかった。

「先輩、ここで働いてたんですか」

「働いてる。週二。叔母の店」

 彼女はそう言ってから、カウンターの奥を顎で示した。

 その先の厨房から、「栞、ミル挽いたら豆の袋ちゃんと閉めて」と、よく通る女性の声が飛んだ。

「はい」と栞先輩は即答した。講義のときにはまず聞かない、短くて素直な返事だった。

「栞、その段ボール、表に出すの手伝ってもらえば?」

 声の主は、奥のテーブルでノートパソコンを開いていた女性だった。短く切った髪に銀色の細いピアス。年上に見える。たぶん大学院生だ。

「楓さん」と栞先輩は少しだけ眉を寄せた。「人を便利な腕力みたいに言わないで」

「だって理工の子でしょ。腕力あるじゃん」

「理工学部に雑な期待をしないでください」

 そう返すと、楓さんは楽しそうに笑った。

「いいね。栞が連れてくる相手、だいたい静かすぎるから」

 その一言だけで、僕は少し緊張した。連れてくる相手。僕は栞先輩の世界の外縁にようやく片足を乗せたばかりで、その内側にどういう人たちがいるのか、まだほとんど知らない。

 店の隅には、大学祭のポスターと一緒に、こんな紙が置かれていた。

『月白 哲学カフェ 声と承認について』

「これをやるの」と栞先輩が言った。「来週」

「哲学カフェ」

「小さい読書会みたいなもの。大学祭に便乗して、お客さんを少しだけ増やしたいらしい」

「らしいって、先輩が主催じゃないんですか」

「主催は楓さん。私は雑用」

「雑用です」と、楓さんがまったく反省のない声で言った。「ただし、いちばん説明がうまい雑用」

 栞先輩は、聞こえなかったふりをした。

 僕はそのとき、カウンター脇に積まれた紙袋の山や、半分までしか書かれていない案内カードや、座席表のメモ書きを見た。確かに人手が足りていない。

「何をすればいいですか」

「まず、その段ボールを表に出して」と栞先輩は言った。「それから、私の代わりにすこし困って」

「どういう仕事なんですか」

「それは、歩きながら説明する」

 その言い方で、僕は少し安心した。この人は、重大なことを説明するとき、たいてい歩く。

 段ボールを持ち上げたとき、厨房から顔を出した女性が僕に軽く会釈した。たぶん叔母さんだ。栞先輩によく似た目元なのに、表情の作り方だけがもっと現実的だった。

「手伝いに来てくれてありがとう」と叔母さんは言った。「栞、外では賢そうな顔してるけど、店の中だとたまにぼんやりしてるから」

「その紹介の仕方、やめて」

「本当のことでしょ。昨日もタイマー鳴ってるのに本読んでたし」

 栞先輩は無言で視線を逸らした。

 僕はたぶん初めて、彼女が家族に近い人の前で少しだけ年相応に見える瞬間を見た。

2. アーレントは、人が人前に出る怖さを知っている

 店の前に小さな黒板を出して、チョークで日時を書き直したあと、僕たちは坂道を下ってポスターを貼りに行った。午前の風はまだ冷たく、住宅街の金木犀の残り香が、古い塀のあいだから少しだけ流れていた。

「で、困ってることって?」と僕は訊いた。

 栞先輩は、丸めたポスターを肩に当てたまま、少し黙ってから言った。

「登壇者が一人、飛んだ」

「大問題では」

「大問題」

「楓さんは」

「私にやれと言っている」

「やればいいじゃないですか」

 言ってから、あまりに簡単な返事だったと分かった。栞先輩は立ち止まり、貼る前のポスターを見下ろした。

「そういう言い方をすると思った」

「すみません」

「べつに怒ってない」

 怒ってはいなかった。ただ、少しだけ表情が固かった。

「アーレントっているでしょ」と彼女は言った。「人間は、他人の前に現れることで『何であるか』だけじゃなくて、『誰であるか』をさらしてしまう、って考える」

「公的領域の話」

「そう。人前に出るって、単に情報を出すことじゃない。自分がどういう人間か、制御しきれない形で露出することでもある」

 彼女は、チョークで黒板の端に小さく線を引いた。

現れること = 晒されること + 始めること

「アーレントは、それをただ怖いものとしてだけ見てはいない。むしろ、そこから政治も行為も始まるって考える。でも」

「でも、怖い」

「かなり」

 僕は少し意外だった。栞先輩は、誰かの前で話すことに慣れている人だと思っていた。講義のあとに質問しても、図書館で出会っても、彼女の言葉は迷いなく出てくる。

「先輩、人前で話すの苦手なんですか」

「少人数なら平気。質問が返ってくるならもっと平気。けど、前に立って、一方向に、うまく話すのは、そんなに」

「初耳です」

「言ってないから」

 僕たちは商店街の掲示板にポスターを貼った。彼女の指先にはチョークの白が少し残っていて、それが妙に人間らしく見えた。きれいに本のページをめくる指ではなく、今ここで働いて、紙を押さえて、少し失敗する指だ。

「正直、僕は」と言った。「先輩が怖がることって、あんまり想像してませんでした」

「それ、たぶん褒め言葉じゃない」

「違います。ごめんなさい」

 彼女は小さく笑った。

「でも、そういうところあるよね。君、私をちょっと完成品だと思ってた」

 否定しようとして、できなかった。

 最初に会ったあの日から、僕はずっと彼女を「説明できる人」として見ていた。雨の中でも、喫茶店でも、外階段の踊り場でも、彼女は言葉を持っていた。僕の知らない思想を僕の手の届く高さまで降ろしてくれる人だった。

 だから、その人が、ポスター一枚の前で少しだけ黙ることに、僕はうまく対処できない。

「先輩にも、苦手な場があるんですね」

「あるよ」と彼女は言った。「というか、人前で平気なふりができるだけ」

 その「ふり」という言葉が、風より少し冷たく聞こえた。

3. ベンヤミンは、一回きりの午後が複製されることを考える

 昼すぎ、店に戻ると、楓さんがレジ横で古いICレコーダーをいじっていた。

「配信もやろうと思って」と彼女は言った。「せっかくなら大学祭のあとも残したいし」

「配信?」と栞先輩が露骨に嫌そうな顔をした。

「アーカイブ。音声だけ。顔は出さない」

「それ、最初に言って」

「今言った」

「順序」

 楓さんは気にした様子もなく、「ベンヤミンの話も入れたいのよね」と続けた。

「複製技術時代」

「そう。声が録音されて、切り出されて、あとから何度も聞ける。もともとその場にいなかった人にも届く。良くも悪くも」

 僕はカウンターに並んだカップを拭きながら、最初の一日を思い出していた。雨上がりの外階段。遠くの白い自販機。栞先輩の声。あの場の空気は、たしかに一回きりだった。

「先輩は、それも嫌なんですか」

「少し」

「どうして」

 彼女は、欠けたカップの縁を親指でなぞった。前に喫茶室で見たのと似た仕草だった。

「ベンヤミンは、複製によって作品の『アウラ』が変わるって言うでしょ」と彼女は言った。「一回きりの、そこにしかない距離や気配が薄くなる。私はたぶん、会話にもそれがあると思ってる」

「その場だけの感じ」

「うん。相手の顔色とか、間とか、窓の外の天気とか、いまちょうど鳴ったスプーンの音とか。そういうもの込みで成立してる理解がある」

 彼女はそこで、少しだけ視線を逸らした。

「この前だって、たぶんそうだった」

 この前。つまり、僕たちが告白した日だ。

「あれを録音したら、たぶん別物になる」

「なるでしょうね」

「でしょ」

 彼女は少し安心したみたいに頷いた。

 でも、そこで楓さんが口を挟んだ。

「ただ、ベンヤミンって、アウラが薄れることを、単純な劣化としてだけ見てるわけでもないじゃん」

「分かってます」

「複製されることで、遠いものが近くなることもある。偉い人のものだった芸術が、もっと広く手に届く。話もたぶん同じでしょ。栞の説明、店の中で消えるのもったいない」

 栞先輩は返事をしなかった。

 僕もすぐには何も言えなかった。彼女が守りたい一回性も分かるし、楓さんの言う「届く」の意味も分かる。

 そのあいだに、レジ前のベルが鳴った。常連らしい白髪の男性が入ってきて、「いつもの」とだけ言った。

「はい、ブレンドですね」と栞先輩はすぐに表情を切り替えた。

「大学祭の会、ちゃんとやるのかい」と男性はコートを脱ぎながら言った。「この前は栞ちゃん、難しい顔してポスター見てたけど」

「やりますよ」と栞先輩は答えた。「難しい顔は標準装備です」

「それなら安心だ」

 エプロンの紐を結び直してカウンターの内側に戻る姿は、やはり僕の知らない彼女だった。哲学を話す人である前に、注文を覚えて、湯の温度を見て、スプーンの位置を直す人だった。

 僕はその背中を見ながら、ひとつだけ分かったことがあった。

 僕はまだ、栞先輩のことをぜんぜん知らない。

4. ガダマーは、理解がうまくいかないことから始める

 店がいったん落ち着いた午後三時すぎ、僕たちは奥の席で当日の進行表を見ていた。紙の上には、楓さんの丸い字でこんな見出しがあった。

『声と承認について ベンヤミン/アーレント/ホネット』

「ガダマーがいない」と僕は言った。

「気づいた」

「好きそうなのに」

「好きだよ」

「じゃあ、なぜ」

 栞先輩はストローの袋をくるくる丸めながら、少し考えた。

「入れたら、本題に刺さりすぎるから」

「本題?」

「理解って、相手を自分の言葉にきれいに訳し切ることじゃない、って話」

 彼女は紙の余白に、ペン先でゆっくり書いた。

理解 = 同化 ではない

「ガダマーは、解釈っていつも自分の地平と相手の地平が出会うことだ、って言う。よく『地平融合』って訳されるけど、私はあれ、きれいに一つになるって意味だと思ってない」

「じゃあ」

「ぶつかったり、ずれたりしながら、見える範囲が少し広がること」

 彼女はそこで、僕の顔を見た。

「たとえば、君はいま、私のことを『説明がうまい先輩』から更新しつつある」

「痛いところを」

「事実だから」

「否定はしません」

 僕がそう言うと、彼女は少しだけ笑った。

「私も同じ。君のこと、最初は『真面目で、正解を一人で出そうとする理工の一年生』だと思ってた」

「だいたい合ってる」

「でも今は、それだけじゃない」

「どう変わりました」

「たまに鈍いし、思ったより頑固だし、急にまっすぐなことを言う」

「悪口が多い」

「褒めてる」

 そこで栞先輩は、進行表の紙を裏返した。

「一年の春、学科の新歓で、一度だけ前に立って話したことがあるの」

 声が少し低くなった。

「ハイデガーの『世界』を説明するのに、待ち合わせの話を使った。好きな人を待ってるとき、時計も廊下もベンチも全部ちがう意味になる、って」

 僕は息を止めた。前作の喫茶室で、彼女が僕にしてくれた説明と、ほとんど同じだった。

「そしたら、少し笑われた」と彼女は言った。「あからさまにじゃない。でも、『身近なたとえで分かりやすいですね』って言われたあとで、教授に『大学の議論に私小説を持ち込みすぎないように』って言われた」

「それは」

「まあ、半分は当たってたのかもしれない。私は抽象的な話を抽象のまま置いておくのが苦手だから」

「それの何が悪いんですか」

 思ったより強い声が出た。

 栞先輩は目を瞬いた。たぶん僕がそんなふうに即答すると思っていなかった。

「悪いとは、いまは思ってない」と彼女は静かに言った。「でも、そのときはけっこう効いた」

 僕は、少しだけ腹が立っていた。あの日、雨の中で僕を哲学の中に連れ込んだ言葉が、そんなふうに軽く片づけられたのだとしたら。

「だから一対一なら平気なんですね」

「そう。相手が目の前にいれば、たとえがちゃんと届いたか分かるから。ずれたら直せる。会話なら、笑われても軌道修正できる」

「講演だと、それができない」

「できなくはないけど、難しい」

 窓の外では、商店街ののぼりが風で軽く折れていた。

 僕はしばらく考えてから言った。

「じゃあ、講演じゃなくて会話にすればいい」

「え?」

「僕が隣に座って、質問します。先輩はそれに答える。途中でお客さんにも聞く。だったら一方向じゃない」

「それ、ずるい」

「どこが」

「君がいると、私はたぶん必要以上に話せてしまうから」

 それは、告白より少しだけ静かな言葉だった。

 けれど同じくらい、心臓に悪かった。

5. ホネットは、人が誰かに見つけられて育つと言う

 大学祭当日、喫茶月白は開店一時間前から落ち着かなかった。楓さんは客席を動かし、叔母さんは焼き菓子を並べ、僕は入口の案内板を書き直していた。

 栞先輩は、いつものエプロンの上に薄い紺色のカーディガンを羽織っていた。きちんとした格好をしているのに、手元だけ少しそわそわしている。砂糖壺の向きを三回直していた。

「緊張してます?」と僕が訊くと、

「してない」と彼女は言ってから、「少し」と訂正した。

 開始十分前、楓さんが僕たちにA4一枚のメモを渡した。

「今日は『講演』じゃなくて『対話』でいこう。栞、最初の五分だけ話して、あとは二人で回して」

「最初の五分がいちばん難しいんですが」

「人間、最初の五分はだいたい難しい」

「雑」

 僕たちは窓際の席に並んで座った。客席には、学部生が六人、近所の人らしい年配の夫婦が一組、それから見覚えのある顔が一人いた。材料力学の演習で隣の席に座る田代だった。

 どうして来たんだ、という顔をした僕に、彼は肩をすくめた。

「おまえが珍しく人を誘うから」

 僕はそこで、自分がこの店のことを田代に話したとき、栞先輩の名前を一度も出せなかったのを思い出した。大学の裏にある古い喫茶店で、小さな哲学カフェがある。そこまでは言えたのに、その中心にいる人のことだけが、まだ僕のなかで私的すぎた。

 開始時刻になると、楓さんが簡単な挨拶をして、あっさり引いた。

「じゃ、あとはよろしく」

 丸投げに近かった。

 栞先輩は一瞬だけ目を閉じて、それから顔を上げた。

「今日は『声と承認』について話します」と彼女は言った。「哲学の言葉だけ聞くと硬いけれど、ほんとはかなり日常的な話です」

 そこまでは滑らかだった。

 でも次の一文の前で、ほんの少しだけ間が空いた。たぶん客席の人数と、窓ガラスに映る自分の姿と、レコーダーの赤いランプを一度に見たからだ。

 僕はその間に、約束どおり口を挟んだ。

「先輩、そもそも承認って何ですか」

 客席の何人かが僕を見た。栞先輩も見た。ほんの少しだけ、助かった顔をした。

「ホネットは、人が自分らしく生きるには、他者からの承認が必要だと考える」と彼女は言った。「ざっくり言うと、『ちゃんと見えている』『ぞんざいに扱われていない』という経験」

 彼女はメモ用紙の端に、短く書いた。

承認 = 「見えている」 + 「大事だ」

「たとえば三つの層がある。親しい関係のなかで大切にされること。社会の一員として権利を持つと認められること。それから、自分の固有の力ややり方が価値あるものとして受け取られること」

「恋愛、法律、部活みたいな」

「まあ、だいたいそう」

 客席が少し笑った。栞先輩の肩から、ひとつ力が抜けたのが分かった。

「恋愛だと」と彼女は続けた。「たとえば、弱っているときに無理を見抜いてもらえる。法や権利の水準だと、誰かの好悪に関係なく一人の人格として扱われる。連帯や価値づけの水準だと、その人にしかできないやり方がちゃんと居場所を持つ」

 そこで田代が手を挙げた。

「それ、要するに承認されないと病むってことですか」

 聞き方は少しぶっきらぼうだった。でも、悪意だけではなさそうだった。

 栞先輩は少し考えてから答えた。

「かなり単純化すれば、そう。ただ、もっと大事なのは、承認がないと、自分が何を傷つけられたのか言葉にしにくくなることだと思う」

「どういうことです」

「たとえば、雑に笑われたとき」と彼女は言った。「それが単に気分の問題なのか、自分の大事な部分が軽んじられたのか、区別できないことがある。でも承認の観点を持つと、『私はただ不快なんじゃなくて、ここでちゃんと一人の人として扱われていないのかもしれない』って考えられる」

 その言葉は、客席より先に、たぶん僕に届いた。

 栞先輩は続けた。

「逆に言えば、人は誰かにちゃんと見つけられることで、自分の輪郭を持てる。恋愛も友情も、教育も、たぶんそこに関わっている」

 僕は彼女の横顔を見た。店の窓から入る午後の光が、まつ毛の端に細く引っかかっていた。

「つまり」と僕は言った。「好きな人に『君はそういうところがいい』って言われるのって、かなり哲学的なんですね」

「雑に言えば」

「またそれ」

 今度は客席がもう少し大きく笑った。

 空気が変わった。講演を聞く空気ではなく、同じ部屋で一緒に考える空気に。

「録音って」と田代がまた手を挙げた。「便利だけど、切り取られて変なふうに広まることもありますよね」

「あります」と栞先輩はうなずいた。「だから怖い。でもベンヤミン的に言うなら、複製って、ただ本物を薄くするだけじゃない。いままで届かなかった場所に届くこともある」

「じゃあ、何を諦めるんですか」

「その場の全部を保存すること」

 栞先輩は、窓の外を一瞬だけ見た。

「この店の匂いとか、今日の光とか、君がさっきちょっと面倒な聞き方をした感じとか、そういうのは消えるかもしれない。でも、その代わり残るものもある。何を残して、何が落ちるのかを自覚して話すしかないんだと思う」

「面倒な聞き方って何だよ」

「そこに反応するなら、だいたい自覚あるでしょ」

 また笑いが起きた。

 今度は年配の男性客が口を開いた。

「でも、人前で話すのは、やっぱり怖いでしょう」

 その問いには、栞先輩はすぐに答えなかった。

「怖いです」と彼女はやがて言った。「かなり。でもアーレントは、人が誰かの前に現れることを、ただ危険だとは考えない。そこでしか始められないことがあるから」

「始める?」

「はい。部屋の中で一人で考えているだけだと、まだ自分の中の出来事のままのことがある。言葉にして外に出したとき、他人に受け取られたり、反論されたり、思ってもみなかった続きを返されたりして、初めて公共のものになる」

 彼女はそこで少しだけ笑った。

「なので、今日は逃げないことにしました」

 途中で年配の女性客が、「じゃあ理解するって、相手の気持ちが全部わかることじゃないのね」と言った。

 そのとき栞先輩は、少しだけ嬉しそうに笑って答えた。

「たぶん、全部わからないまま大事にすることです」

 それはたしかにガダマーの話でもあったけれど、そのときの僕には、思想の名前より先に、栞先輩自身の声として聞こえた。

6. 先輩ではなく、栞さんの話

 哲学カフェが終わったあと、店内には甘い焼き菓子の匂いと、使い終わった言葉の余熱みたいなものが残っていた。客席を戻し、カップを洗い終えたころには、外はもう夕方だった。

「よかったじゃん」と楓さんは言った。「最初の十分、顔が死んでたけど」

「その感想いま要ります?」

「要る。あと、会話形式は正解だった」

 そう言ってから、楓さんは僕のほうを見た。

「ありがとう。栞、ああいうふうに話せる相手、そんなに多くないから」

 僕はうまく返事ができずに会釈した。

 楓さんと叔母さんが店の奥に下がると、カウンターには僕と栞先輩だけが残った。シンクの水音が止んで、店が急に静かになった。

「助かりました」と栞先輩が言った。

「どういたしまして」

「悔しいけど」

「そこは素直に」

「だって、本当に君がいなかったら逃げてたかもしれないし」

 彼女は、拭いたばかりのカップを棚に戻した。少し欠けた、あのカップだった。

「でも、ひとつ分かった」と彼女は言った。

「何がですか」

「私はたぶん、うまく話したいんじゃなくて、ちゃんと届く形で話したい」

 彼女は僕を見る。

「それって似てるようで、少し違うでしょ」

「違いますね」

「前に立って完璧に説明する人になる必要はないのかもしれない。会話のほうに自分の強みがあるなら、そこから始めればいい」

「いいと思います」

「教授が何と言っても?」

「かなり」

 栞先輩は笑った。その笑い方には、あの日の外階段より少しだけ生活が混じっていた。疲れと安堵と、ほんの少しの照れが同時に入っている顔だった。

「あと」と彼女は言った。「そろそろ『先輩』やめない?」

 不意打ちだった。

「いきなり本題が来た」

「ずっと本題だったけど」

「じゃあ、何て呼べば」

 彼女は少しだけ考えて、それから肩をすくめた。

「ひとまず、栞さん」

「まだ『さん』つきなんですね」

「急に呼び捨ては難易度が高い」

「それは、そうかもしれない」

 僕は一度だけ深呼吸してから言った。

「……栞さん」

 たった四文字のはずなのに、告白のときとは別の種類の緊張があった。関係に名前をつけ直すのは、思っていたよりずっと大きな出来事らしい。

 彼女は目を細めた。

「うん。今のほうがいい」

「慣れません」

「私も」

 その返事に、少し救われた。

 店を出ると、坂の上から夕方の風が降りてきた。大学祭ののぼりが、昼よりやわらかく揺れている。

 僕たちはしばらく並んで歩いた。恋人としてはまだぎこちなくて、でも前より沈黙に理由をつけなくてよくなっていた。

「今日のお客さんの質問、よかったですね」と僕が言うと、

「うん。『全部わからないまま大事にする』って、自分で言って、ちょっとびっくりした」

「本音だったからじゃないですか」

「たぶん」

 彼女は信号待ちで立ち止まり、前を向いたまま続けた。

「君のことも、まだ全然わからないよ」

「それはお互いさまです」

「でも、前より少しちゃんと見えてきた」

「どのへんが」

「さっきの、教授の話で本気で怒ってくれたところ」

 僕は言葉に詰まった。あれは、ほとんど反射だったからだ。

「ああいうの、承認っぽい」と彼女は言った。

「ずいぶん哲学で片づけますね」

「片づけてない。言い換えてるだけ」

 信号が青になった。

 横断歩道を渡る途中で、彼女の指先が一瞬だけ僕の手の甲に触れた。わざとか偶然か判断するには短すぎる接触だったのに、その一瞬だけで、世界の輪郭が少し変わった。

 たぶん理解って、相手のことを完全に説明できるようになることじゃない。

 喫茶店でエプロンを締め直す癖とか、人前に出る直前だけ砂糖壺の向きを何度も直すこととか、昔の言葉にまだ少し傷ついていることとか、そういう細部が、こちらの予想を裏切ったまま残りつづけること。

 それでも、その残りつづける部分ごと、何度でも話しかけること。

 坂の下まで来たところで、栞さんは小さく言った。

「次は、君の話を聞かせて」

「僕の?」

「うん。いつも私ばっかりしゃべってるから、不公平」

「そんなに話せることありませんよ」

「あるでしょ」と彼女は言った。「正解を一人で出したがる君が、どうして理工学部にいるのに哲学の棚で立ち止まったのか。私、まだそこ、ちゃんと聞いてない」

 夕方の光のなかで、その問いは妙にまっすぐだった。

 僕は少し考えてから答えた。

「じゃあ、今度」

「逃げた」

「対話は、不完全なまま始めるしかないんでしょう」

 そう言うと、栞さんは一拍だけ呆れて、それから笑った。

「それ、便利に使いすぎ」

 たぶん僕たちは、まだぜんぜん完成していない。

 恋人としても、対話相手としても、相手を理解する人間としても。

 でも、だからこそ次があるのだと、いまは思える。

 人はたぶん、誰かに見つけられながら、少しずつ自分の声を持つ。

 その声が、狭い喫茶店から、いつかもう少し広い場所へ出ていくとしても、最初はきっと、迷いや震えを残したままだ。

 その震えごと聞き取る役くらいは、たぶん僕にもできる。