春学期のはじめ、僕はまだ、自分がどの棚の前で立ち止まる人間なのか決められずにいた。
理工学部の新入生として大学に入ったはずなのに、なぜかその日の僕は、中央図書館の三階、西洋哲学の棚の前にいた。レポートの参考文献を探していたわけではない。ただ、講義でたまたま耳にした「世界は存在しない」という一節が気になっていたのだ。
世界が存在しない。
そんなことを言われると、まず僕は、机とか椅子とか、図書館の静けさとか、自分の腹の減り具合とか、そういうものを順に指さして確かめたくなる。存在しているものばかりに見える。
「困ってる顔」
声がして振り向くと、いつの間にか隣に、背の高い女子学生が立っていた。黒い髪を後ろでゆるく束ね、借りたばかりらしい本を胸に抱えている。表紙には、はっきりとこう書かれていた。
『なぜ世界は存在しないのか』
「顔に出てましたか」
「かなり。『存在しないって言われても、じゃあこれは何ですか』って順番に本棚を指さしそうな顔」
図星だったので、僕は少しだけ悔しくなった。
「その本、答えが書いてあるんですか」
「書いてある。けど、いきなり最後の答えだけ読むと、たぶんもっと混乱する」
彼女は本を軽く持ち上げてから、僕の手元のノートに目を落とした。そこには、講義メモの余白にこんな一文が書き殴ってあった。
神は死んだ → 世界は存在しない ?
「いい線です」と彼女は言った。「そこ、一本の線でつなぐと面白い」
「つながるんですか。ニーチェから、これ」
「つながる。歩きながら話す?」
その一言で、僕の一日は予定を変えた。
1. ニーチェのあと、何が残るのか
図書館を出ると、小雨が降っていた。彼女は透明なビニール傘を開き、僕はコンビニの安い折りたたみ傘をひらいた。中庭の新緑は濡れて、やけに輪郭だけが鮮やかだった。
「まずニーチェ」と彼女は言った。「有名な『神は死んだ』は、単なる挑発じゃない。もっと困った報告なの」
「困った報告」
「うん。今まで世界を支えていた一番高い価値が、もう自明じゃなくなった、ってことだから」
彼女は歩きながら、空いた手で空中に式を書くみたいに指を動かした。
価値 = 上から与えられるもの
「この式が壊れた。そうすると、善いとか正しいとか美しいとか、そういう言葉の地面が抜ける。ニーチェはそこから逃げなかった。だったら、自分で価値を作るしかないだろう、って言った」
「でも、それって怖くないですか。何でもありになりそうで」
「なる。だからニヒリズムが出てくる。何を信じても仮置きに見える」
彼女はそこで立ち止まり、傘越しに僕を見た。
「たとえば、君が誰かを好きになったとして」
「え」
「まだ仮定。そんなに驚かないで。で、その『好き』に、天から保証が降りてこないとしたらどうする?」
雨粒が傘を細かく叩いていた。
「……自分で引き受けるしかない」
「そう。それがニーチェのあとに始まる話」
その言い方が妙に印象に残った。哲学史の説明なのに、なぜか僕は試験を受けている気分になった。
2. ハイデガーは、世界を物の集まりにしない
学生会館の脇を抜けるころには、雨は少し弱くなっていた。彼女は自販機で温かいカフェラテを買い、僕は缶コーヒーを買った。ベンチに座ると、湿った木の匂いがした。
「次、ハイデガー」と彼女は言った。「ここで『世界』の意味が変わる」
「どう変わるんですか」
「机、傘、缶コーヒー、図書館。そういう物がバラバラにあるだけじゃ、まだ世界じゃない。私たちは、使ったり待ったり急いだり気まずくなったりしながら、その中に住んでるでしょ。ハイデガーは、世界を『意味の連関』として見た」
彼女は僕の缶コーヒーを指さした。
「それ、物理学的にはただの金属と液体。でも今の君にとっては、『沈黙をもたせるためのもの』でもある」
「そんなに不自然に見えてましたか」
「少し」
彼女は笑った。
「誰かを待っているとき、時計は単なる円盤じゃなくなる。遅刻している相手を責める装置になる。廊下は距離になる。既読のつかないスマホは不安になる。世界って、そういうふうに立ち上がる」
僕は缶の温度を指先で確かめた。
「じゃあ、世界は客観的な箱じゃなくて」
「私たちが関わることで開けてくる場」
彼女はノートを取り出して、僕の講義メモの隣に一行だけ書いた。
世界 = ものの総和 ではなく、意味のひろがり
「ニーチェのあと、価値の地面は揺れた。ハイデガーは、その揺れる地面の上で、そもそも私たちがどうやって世界の中にいるのかを考え直したの」
「つまり……好きな人がいると、世界の見え方が変わる、みたいな」
「今日はそのたとえを使う日なの?」
「先輩が最初に言い出したんじゃないですか」
「そうだった」
先輩。そう呼ぶと、彼女は否定しなかった。
3. アドルノは、概念で取りこぼすものを見ている
夕方、構内の小さな喫茶室に移った。古い店で、テーブルの端は少しだけ白く擦れている。彼女の前に置かれたカップには、ごく小さな欠けがあった。
「次はアドルノ」と彼女は言った。「ここから少し意地が悪くなる」
「哲学ってだいたい意地が悪くないですか」
「いい観察」
彼女は欠けたカップの縁に指を置いた。
「私たちは、何かを見るとすぐ概念でまとめたくなる。これはカップ、これは学生、これは恋愛、これは会話。でも、実際のものは、概念にぴったり収まりきらない」
「非同一性、でしたっけ」
彼女は少し目を見開いた。
「講義、ちゃんと聞いてる」
「たまたま覚えてただけです」
「それで十分。アドルノは、現実の側に、概念からはみ出す部分があるって考える。きれいに整理された説明は魅力的だけど、そのきれいさのために消されるものがある」
彼女はカップを持ち上げた。
「この欠けを見ないまま『カップ』って呼ぶことはできる。でも、その呼び方だけでは足りない」
「人間も同じ」
「そう。『明るい人』『優秀な人』『面倒な人』。そういうラベルで誰かを処理すると、その人の固有の凹凸が消える」
僕は、自分が彼女を頭の中でどう呼んでいたかを思い返した。哲学に詳しい先輩。話し方が鮮やかな人。雨の日が似合う人。
どれも、たぶん少しずつ違う。
「じゃあ、誰かを好きになるって」と僕は言った。「その人を概念で片付けられなくなることなんですか」
「かなり近い」
彼女は頷いた。
「たぶん恋愛って、最初から少しアドルノ的なのよ。『こういう属性の集合だから好き』じゃなくて、説明しきれない余りがある」
それは、講義ノートのどこにも書いていない定義だった。けれど、その場にいる僕には、妙に正しく聞こえた。
4. ハーバーマスは、独り言の王国から出てくる
喫茶室を出ると、空はすっかり暗くなっていた。構内の街灯がひとつずつ灯り、濡れたアスファルトに細く伸びている。
「でも」と僕は言った。「ニーチェみたいに価値を作る話と、アドルノみたいに概念を疑う話だけだと、結局みんな自分の中に閉じませんか」
「そこでハーバーマス」
彼女は、待っていましたと言わんばかりにそう返した。
「彼は、理性を一人の頭の中だけに置かない。私たちは、話し合いの中で、互いに理由を出し合いながら正しさを確かめる、って考える」
「コミュニケーション的行為」
「そう。真理も正しさも誠実さも、黙って抱えているだけじゃ足りない。通用するかどうか、相手に向けて言ってみないといけない」
彼女は歩調を落として、僕に合わせた。
「さっきの『好き』の話で言うなら、好きという感情は、胸の中にあるだけではまだ半分なの。言葉にして相手に差し出したとき、それは初めて公共性を持つ」
「告白は、コミュニケーション理論なんですね」
「雑に言えば」
「夢があるのかないのか分からない説明ですね」
「でも本質的でしょ」
たしかにそうだった。誰かを好きだと思うことと、それを相手に伝えることの間には、深い溝がある。溝を渡るには、たぶん勇気だけじゃなく、相手もまたこちらを一つの発話者として扱ってくれるという期待が要る。
「僕、ずっと」と言いかけて、そこで口を閉じた。
「ずっと?」
「いや。たぶん、正しい答えが先にあると思ってたんです。何が正しいか、何を言うべきか、全部ひとりで決めてからじゃないと話しちゃいけない、みたいな」
「それは理系っぽい思い込み」
「哲学科は違うんですか」
「哲学科もだいぶひどい」
僕たちは、少し笑った。
「でもね」と彼女は言った。「話す前から完全な正しさなんて持てない。対話は、不完全なまま始めるしかないの」
5. マルクス・ガブリエルは、世界をひとつにまとめない
気がつくと、図書館の閉館時刻を知らせる放送が遠くで流れていた。僕たちは理学部棟の屋上へ続く外階段の踊り場に腰を下ろした。ここからだと、キャンパスの灯りが少しだけ模型みたいに見える。
彼女は、最初に持っていた本をようやく開いた。
「で、ここでマルクス・ガブリエル。彼はかなり大胆に言う。『世界は存在しない』」
「やっと戻ってきた」
「ただし、何もないって意味じゃない。むしろ逆。いろんなものがありすぎるから、それら全部をひとつに収めた『世界そのもの』なんてない、という話」
彼女はノートに三つ、短い行を書いた。
数学には数学の対象が現れる
恋愛には恋愛の対象が現れる
小説には小説の人物が現れる
「彼はこれを『意味の場』って呼ぶ。何かが現れるには、現れ方にふさわしい場がいる。数字は法廷には現れない仕方で数学に現れるし、法律上の責任は恋愛感情とは別の場で現れる」
「じゃあ、全部を上からまとめて見る巨大な箱としての世界はない」
「ない。あるのは、いくつもの意味の場」
彼女は、ゆっくり本を閉じた。
「ニーチェのあと、価値は自明じゃなくなった。ハイデガーは、私たちが世界内存在として意味の連関の中にいると考えた。アドルノは、概念からこぼれるものを忘れるなと言った。ハーバーマスは、意味や正しさが対話の中で試されることを重視した。ガブリエルは最後に、そもそも全部を一つに束ねた『世界』なんてない、と言う」
「でも、それってむしろ安心するかもしれない」
「どうして?」
「世界全部に保証されなくても、何かが成立していいってことだから」
彼女は、少しだけ驚いた顔をしたあと、静かに笑った。
「いいまとめ方」
風が吹いて、彼女の前髪が少し乱れた。その細い影が頬にかかるのを見て、僕はふいに、自分が今日一日でずいぶん遠くまで来てしまった気がした。ただの講義の補足を聞いていたはずなのに、もうそれだけではなかった。
「先輩」
「うん」
「さっきから、ずっと『好き』の話でたとえてましたよね」
「たとえとして便利だから」
「本当にそれだけですか」
彼女は少し黙った。キャンパスの向こうで、誰かの笑い声が小さく弾けて消えた。
「半分はね」
「もう半分は」
「君が、講義のあといつも一人で残ってノートを書き直してるの、知ってたから」
僕は言葉を失った。そんなことに気づかれていると思わなかった。
「正しい考え方を、誰にも迷惑をかけない形でひとりで作ろうとしてる顔をしてた」と彼女は言った。「でも、哲学はたぶんそれだけじゃ進まない。だから今日は、捕まえた」
「捕まえたって」
「不服?」
「いえ」
不服ではなかった。むしろ、胸のあたりにあった硬いものが、少しずつ温度を持ってほどけていく感じがした。
「じゃあ、ひとつだけ試してもいいですか」
「何を」
「ハーバーマス的なやつを」
彼女は目を細めた。
「いいよ」
雨上がりの空気は冷たかったのに、喉の奥だけが熱かった。
「僕は、たぶん先輩のことが好きです」
言った瞬間、何かが終わるというより、何かが始まった感じがした。正解を提出した感じではない。未完成のまま、相手の前に置いた感じだった。
彼女はすぐには答えなかった。答えの代わりに、ノートを僕の膝の上に置いた。最後のページに、彼女の字でこう書かれていた。
世界がなくても、意味の場はひらける
「私はね」と彼女は言った。「そういうふうに言ってくれる君を、けっこう前から好き」
たぶんその瞬間、世界は存在しなかった。
存在したのは、外階段の踊り場の冷たさと、雨の匂いと、遠くの自販機の白い光と、僕の膝の上のノートと、彼女の声だった。
それで十分だった。
6. レポートの一行目
その夜、部屋に戻った僕は、提出用のレポートを開いた。タイトルをつけて、最初の一行を書くまでに、いつもなら一時間はかかる。けれどその日は、十分もかからなかった。
僕はこう書いた。
「近現代のドイツ哲学は、唯一の保証された世界像を失ったあとで、なお人間がどのように意味の中で生き、他者と語り、複数の現れの場を引き受けるのかを考え続けてきた。」
少し硬すぎる気もしたけれど、悪くなかった。
その下に、提出版には入れない一文を、個人用のノートにだけ書き足した。
「世界全部がなくても、君に話しかける理由は消えない。」
翌朝、そのページを見た栞先輩は、「レポートとしては真面目。小説の書き出しとしては、もっといい」と言った。
僕はまだ、自分がどの棚の前で立ち止まる人間なのか、完全には決められていない。
でも少なくとも今は、哲学の棚の近くにいる。
ときどき、その隣に、彼女がいる。