約束したのは、昨日の私だ

妻に「運動会、絶対来るって昨日あなたが言ったんだからね」と言われたとき、僕は危うく、「それは昨日の私でしょう」と答えかけた。 その言葉を口にしなかったのは、理性が働いたからではない。 単に、娘がテーブルの向こうで食パンをかじっていたからだ。 1. 僕は戸籍の仕事をしている 市役…

5883字 約8分

 妻に「運動会、絶対来るって昨日あなたが言ったんだからね」と言われたとき、僕は危うく、「それは昨日の私でしょう」と答えかけた。

 その言葉を口にしなかったのは、理性が働いたからではない。

 単に、娘がテーブルの向こうで食パンをかじっていたからだ。

1. 僕は戸籍の仕事をしている

 市役所の戸籍課で働いている、と言うと、たいていの人は少しだけ距離を取る。

「大変そうですね」

 そう言ってから、相手はたいてい、自分の出生届や婚姻届や死亡届のことを一瞬だけ思い出した顔になる。

 戸籍には、生まれたことも、結婚したことも、離婚したことも、死んだことも載る。

 けれど載らないものもある。

 たとえば、誰かが昨日と今日で同じ人間だという確信は、どこにも記録されない。

 そんなことを考え始めたのは、父が死んでからだった。

 去年の冬、父は脳梗塞のあとで急に弱り、そのまま三週間で死んだ。葬儀のあと、実家を片づけていたとき、本棚の奥から古い文庫が何冊か出てきた。僕が大学時代に読んで、そのまま置いていった哲学の本だった。

 ロック、ヒューム、パーフィット。

 どれも、大学二年か三年のころ、妙に夢中になって読んでいたものだ。

 法学部だったけれど、法そのものより、「同じ人である」とはどういうことか、責任は何に結びつくのか、そういうことのほうに惹かれていた。

 結局、公務員試験を受けて、哲学からは離れた。離れたつもりだった。

 でも父の死後、その本を持ち帰ってしまった。

 父は最後の数日、僕の名前を何度か間違えた。僕の弟の名前で呼んだり、もう死んでいる自分の兄の名前で呼んだりした。

 それでも、あれは父だったのだろうか。

 そう考えることは不謹慎な気がして、葬儀の直後には自分に禁じていた。けれど、いったん戻ってきた問いは、台所の隅の湿気みたいに、生活のなかにじわじわ残った。

 春になって、僕はまた本を開いた。

 ロックは、人格の同一性を身体や魂ではなく、意識の連続性に置こうとした。

 ヒュームは、自分を探しても、見つかるのは知覚の束ばかりだと言った。

 パーフィットは、さらにそれを押し進めて、「同一性」は私たちが思うほど重要ではないかもしれないと言う。

 昔は、そういう議論を知的に面白いと思っていた。

 今は違った。

 朝、目が覚めたとき。

 枕元のスマホの時刻を見て、自分の名前を思い出し、隣で寝ている妻の背中を見て、廊下の向こうに娘のランドセルがあるのを確認して、それでようやく、自分がこの家の人間であることを再構成している気がした。

 もしそれらの確認がなかったら、僕は本当に昨日の僕と同じなのだろうか。

 最初はただの考えだった。

 考えで済めばよかった。

2. ロックは、約束を寝室まで運んでくれない

 娘の真帆は小学二年生で、寝る前に必ず翌日の予定を確認したがる。

「明日、図工ある?」

「あるよ」

「お父さん、明日早い?」

「少し早い」

「じゃあ、帰り、六時くらい?」

 そういう会話が、毎晩のようにある。

 ある火曜日の夜、真帆が歯磨きを終えてから、ふいに言った。

「運動会、お父さん来る?」

 来月の土曜日だった。僕はその週、窓口の担当が多く、できれば休日に何も考えたくなかった。

 でも真帆は体を半分だけこちらに向けて、返事を待っていた。

「行くよ」と僕は言った。

「ぜったい?」

「絶対」

 真帆は満足した顔で寝室へ行った。妻の志保は洗濯物をたたみながら、「助かった」と言った。

「今年は徒競走もあるし、あの子、かなり本気だから」

「うん」

「忘れないでよ」

「忘れない」

 その夜、僕は久しぶりにパーフィットの『理由と人格』を開いていた。途中で眠くなって本を閉じ、照明を消した。

 翌朝、目が覚めたとき、約束の記憶はあった。

 あったのに、奇妙な違和感があった。

 たしかに昨夜、真帆に「行く」と言った。場面も思い出せる。洗面台の青いコップ、歯磨き粉の匂い、志保の手元のタオル。

 でも、その記憶は、僕がした経験というより、昨日の僕についての報告書みたいに感じられた。

 証拠はある。状況も辻褄も合う。だが、それを引き受ける主体が、寝ているあいだにどこも途切れていないと、どうして言えるのだろう。

 そんなことを考えながらネクタイを結んでいたら、志保が言った。

「さっきの話だけど」

「うん」

「運動会、もし雨でも午前だけにはなるらしいから」

「うん」

「絶対来るって昨日あなたが言ったんだからね」

 そこで、僕は危うく言いかけた。

 それは昨日の私でしょう、と。

 口のなかでその文だけが冷たく転がった。もし言っていたら、たぶんその朝の時点で、何かはっきり壊れていたと思う。

 だから僕は言わなかった。

「分かってる」とだけ答えた。

 だがその日から、約束というものが急に恐ろしくなった。

 約束は、未来の自分を人質に取る制度だ。

 けれど、その未来の自分が本当に自分なのか分からないなら、約束は誰に対する暴力なのだろう。

3. ヒュームは、朝の鏡の前で何も見つけない

 僕は確認を始めた。

 まずは小さなことからだった。

 朝起きたら、洗面所で鏡を見る前に、昨夜の出来事を三つ思い出す。

 真帆が音読で一回噛んだこと。

 志保が味噌汁を少し薄いと言ったこと。

 寝る前に読んだ本のページ数。

 それから鏡の前に立って、自分の顔を見る。

 寝ぐせ。剃り残し。左の眉の上の薄い傷。三十八歳。桐原亮介。

 名前を心のなかで唱える。

 そのあと、洗面台の曇り止めの角に、人差し指で自分の署名を書く。

 桐原亮介。

 次に、タオルでそれを消して、もう一度書く。

 筆順も、癖も、だいたい同じだ。

 それだけで少し安心してしまう自分が、気味悪かった。

 それでも、ときどき妙な感じがした。

 顔は連続している。記憶もある。持ち物も同じだ。けれど、それらをひとつに束ねて「私」と呼ぶ力だけが、朝には少し弱い。

 ヒュームの言うとおり、見つかるのは束だけではないのか。

 束ねていると思っているのは、ただの習慣ではないのか。

 職場でも、それは続いた。

 戸籍の仕事は、名前と日付の仕事だ。出生。婚姻。転籍。認知。死亡。

 ある日、窓口で高齢の女性が、亡くなった夫の除籍謄本を請求しに来た。必要書類に不備があって、僕は丁寧に説明した。

「ご主人との続柄が確認できるものを」

 女性は少し黙ってから、紙のうえの「夫」という欄を見た。

「死んでも、夫なんですね」

「……戸籍上は、そう記載されます」

「戸籍上は」

 その言い方が、自分でも妙に耳に残った。

 女性は帰り際、書類を鞄にしまいながら言った。

「昨日までいた人が、急に書類になるの、変ですね」

 僕は「そうですね」とも「いいえ」とも言えなかった。

 昼休みにその言葉を思い出しながら、鏡のないトイレの個室で、自分の手の甲を見た。薄い毛、血管、爪の根元の白。これが昨日の僕の手でないという証拠はない。だが、そうであるという証拠も、思ったほど強くない。

 僕はメモ帳の端に自分の名前を書いた。

 桐原亮介。

 いつもどおりの字だった。

 それでも、その署名が誰の癖なのか、急に分からなくなった。

 その夜から、僕はメモを書くようになった。

 枕元のノートに、毎晩三行。

あなたは桐原亮介。
志保はあなたの妻。真帆はあなたの娘。
明日の朝も、この家の人間として振る舞うこと。

 最初にそれを見たのは、志保だった。

「なにこれ」

「念のため」

「何の?」

 そこで僕は少し迷ったあと、なるべく軽く言った。

「朝、寝ぼけることあるから」

 志保はノートを閉じた。

「亮介」

「うん」

「そういう冗談、いま疲れてて笑えない」

 冗談ではなかった。

 でも、そのことを正直に言うほうが、もっと笑えなかった。

4. パーフィットは、恐怖を減らすはずだった

 九月に入ってから、真帆は運動会の練習の話ばかりするようになった。

「かけっこ、二番だった」

「すごいじゃん」

「でも、一番の子はスタートが速いの」

「じゃあ、スタートの練習したら」

「うん」

 そういうやりとりをしているあいだ、僕はたいてい、半分だけ別のことを考えていた。

 もしパーフィットが正しいなら、重要なのは厳密な同一性ではなく、心理的な連続性と結びつきのはずだ。

 それなら、僕が明日の僕と完全に同じでなくても、十分近く、記憶と性格と関心がつながっているなら、それで足りるのではないか。

 本では、たしかにそう読めた。

 だが生活の中では、まるで足りなかった。

 真帆が「お父さん」と呼ぶとき、必要なのは「十分近い別人」ではない。

 志保が冷蔵庫に「牛乳買って」とメモを貼るとき、相手にしているのは心理的に連続した誰かではなく、昨日それを頼まれたのと同じ夫のはずだった。

 理屈は恐怖を減らすどころか、むしろ恐怖を具体的にした。

 もし同一性が思うほど重要でないのだとしても、家族にとっては重要なのではないか。

 もっと言えば、家族という仕組みは、「同じ人が明日もいる」という粗い信頼に全部乗っているのではないか。

 ある木曜日の朝、真帆が玄関で上履き袋を持ちながら言った。

「今日、帰ったらスタート見て」

「いいよ」

「ぜったいね」

「うん」

 そこでまた、胸の奥に嫌なものが走った。

 この「うん」は誰のものだ。

 僕はしゃがんで真帆の靴の踵を直しながら、どうしても考えてしまった。今この場で返事をしている僕は、今夜眠ったあと、明日その約束を引き受ける僕と同じなのか。

 真帆は僕の顔をのぞきこんだ。

「どうしたの?」

「いや」

「また考えてる顔」

 その言い方に、僕はぞっとした。

 子どもは、大人がどこでいなくなるかを見抜く。

 僕はその日の夜、約束を守った。校庭の隅で真帆のスタートを見て、帰りにコンビニでアイスを買った。真帆は上機嫌で、志保も少し安心した顔をしていた。

 なのに、寝る前にノートを書く手が止まらなかった。

明日も真帆の父として振る舞うこと。
今日の記録を信じること。
疑っても、口にしないこと。

 自分で書いたくせに、最後の一行が、脅迫文みたいに見えた。

5. 同じ人間であることを証明する方法が、家の中にはない

 運動会の前日、僕は昼休みに婚姻届の様式を倉庫へ取りに行った。薄暗い保管室には紙の匂いと埃が溜まっていて、棚のラベルがどれも少し曲がっている。

 そこでふいに、くだらない考えが頭に浮かんだ。

 婚姻届にも出生届にも、本人確認はある。

 死亡届にも死亡診断書が添付される。

 だが、朝起きた人間が、昨日のその人間と同一であることを証明する書式は存在しない。

 存在しないという事実が、急にひどく気味悪く思えた。

 その日の帰り、僕は文房具屋で小さな南京錠を買った。

 自分でも、買う瞬間まで理由ははっきりしていなかった。いや、理由はあった。ただ、それを文にしたくなかった。

 夜、真帆が寝たあと、志保がそれを見つけた。

「何これ」

「念のため」

「最近、その言葉ばっかり」

 志保はため息をついて、テーブルにそれを置いた。

「亮介、何が怖いの」

 僕はしばらく黙っていたが、もうごまかせない気がした。

「朝の自分が、今日の自分と同じだって、どうして言える?」

 志保は、まばたきをしなかった。

「……は?」

「記憶があるのは分かる。体も同じだ。でも、それって証拠として足りるのか」

「ちょっと待って」

「寝てるあいだ、意識は切れてる。完全に。なのに、起きたら当然みたいに昨日の約束を引き受けてる。それって、本当に妥当なのか」

「亮介」

「もし別人だったら?」

 その瞬間、志保の顔つきが、怒る前に変わった。

 怒りではなく、危険を測る顔に。

「じゃあ」と志保は言った。「今ここで話してるあなたに、真帆を任せて大丈夫かどうか、私は何を見ればいいの」

 僕は答えられなかった。

 顔も声も記憶も同じで、それでもなお足りないかもしれないと言い出したのは僕のほうだったからだ。

「それ、いつから考えてるの」

「ずっと前から少しは。でも最近、はっきりしてきた」

「南京錠は何のため」

 僕は答えられなかった。

 言ってしまえば、たぶん取り返しがつかないと思った。

 朝の自分を、寝室から出さないため。

 そう思っていたとは、どうしても口にできなかった。

 志保はゆっくり立ち上がった。

「真帆を起こさないで」

 その言葉だけで、もう十分だった。

 志保はそこから先、声を荒げなかった。荒げる必要がないほど、警戒していた。

 僕が何を言い間違えたのか、いや、何を考えすぎたのか、全部そこに出ていた。

 僕はその夜、リビングのソファで寝た。

 寝る前にノートを書こうとして、やめた。

 代わりに、スマホのメモに一行だけ残した。

明日のあなたへ。娘に近づく前に、よく考えて。

 送信先のない文章だった。

 それなのに、書いたあとでひどく安心してしまった。

6. 朝の私は、その文を脅迫だと思った

 目が覚めたとき、天井が少し低く見えた。

 ソファで寝たせいで首が痛かった。カーテンの隙間から、白っぽい朝の光が床に落ちていた。しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。

 それから、テーブルの上のスマホが鳴っているのに気づいた。

 画面には、自分のメモアプリが開いたままだった。

明日のあなたへ。娘に近づく前に、よく考えて。

 最初に浮かんだのは、怒りに近い感情だった。

 誰がこんなことを書くんだ。

 いや、昨夜の僕だ。

 そう分かっても、文の敵意は消えなかった。

 娘に近づく前に、よく考えて。

 つまり、昨夜の僕は、今朝の僕を危険人物として扱っていたのだ。

 僕はゆっくり立ち上がった。足の裏が冷たかった。寝室のほうから、衣擦れの音がした。志保が起きたのだと思った。

 僕はその場で立ち尽くした。

 もし僕が昨夜の僕と同じなら、この文は自己警告だ。

 もし違うなら、これは見知らぬ人間からの告発だ。

 どちらにしても、寝室へ行く足がすぐには出なかった。

 廊下の向こうで、真帆が笑った。

 夢の続きみたいな、短い笑い声だった。

 その声を聞いた瞬間、行かなければと思った。

 思ったのに、同時に、もうひとつの考えが生まれた。

 昨夜の僕が、ここまで書くほど恐れていた相手が、本当に僕だったら。

 僕は寝室のドアノブに手をかけた。

 手をかけたまま、回せなかった。

 内側から、志保の声がした。

「真帆、ちょっと待って」

 それは、朝の支度を急がせる、ただの日常の声だった。

 なのに僕には、ドア一枚隔てた向こうで、昨日の世界が僕の不在を前提に動き始めているように聞こえた。

 そのとき初めて、はっきり分かった。

 僕が怖がっていたのは、明日の自分が別人かもしれないことではない。

 志保と真帆の側から見れば、もうすでに、僕は入れ替わりうるものとして扱われ始めているのではないか、ということだった。

 名前が同じで、記憶が続いていて、顔も同じでも。

 ドアの前で一秒ためらうだけで、父親ではなくなる。

 真帆がもう一度、中で笑った。

 それから、僕を呼んだ。

「お父さん?」

 僕はまだ、ドアを開けられなかった。